平松道夫氏の思い出

 平松さんが亡くなったのは4月26日で、半年経た今改めて数々の思い出を記して君のしのび草としたい。

 平松さんは昨今では野鳥の会の数少ない戦前組で、大阪支部では岡田康稔氏と共に最長老の一人てあった。私との最初の出会は私が野鳥の会に入会して間もなく参加した六甲山探鳥会で、昭和13年の5月であった。第一印象は言葉に少し訛りがあったが自面で稍痩型のスマートな紳士て才気満々と言った感じてあった。

 私より三つ年少であるが当時既に入会後1年以上も経ち、叉若い時から飼鳥をやってられたので鳥には詳しく、色々と教えて頂いた。丁度、初代幹事の故守山白雲氏が転勤のため辞任され、岡田康稔氏と二人で幹事を引き継がれた頃てある。

 世相は漸くあわただしく、間もなく岡田氏は応召、平松さんは満洲へ転任となり、故堀田光鴻氏が後を引き継く゛ことになった。然し平松さんの満洲時代は短く、一年余りて大阪に帰任され、程経て堀田氏と並んで再び幹事となって現在に及んだ。

 満洲から帰られてからは年令の関係もあって特に親しく交際するようになり、支部の探鳥会以外にも各所に行を共にしたが野鳥だけでなくて自とクラスメートのようなつきあいになっていた。昭和19年には私も堀田氏の後任として幹事になって平松さんと共に支部の世話をすることになった。

 堀田幹事は絵が上手て、野鳥の油絵を描く関係で色彩の豊富なカモ類が特に好きであった。シギ・チドリにも詳しく、初期の頃の野鳥の会には稀な水鳥党であった。

 平松幹事は山野を歩いて野鳥の鳴き声を楽しむ方て、豊富な飼鳥の経歴もあって、鳴禽類持にウグィスが好きであった。探鳥会の帰途などによく会食をしたものだが、宴酣になると必ずお二人の間でカモとクグイスの優劣論争が始まる。他のものはニコニコして聞いているが、白熱してハラハラするようになると榎本先生の行司で引き分けとなるのが常であった。

 榎本先生も絵がお上手で、特にその野鳥画画は秀逸てある。後年、おつき合いの記念にと私達それぞれに新たに描き上げた素晴らしい油絵を頂くことになった。

 平松さんのは大樹に群れる諸々の小鳥類を描いた誠に楽しい絵て、平松さんも大変喜ばれて今でも平松家に秘蔵されている筈である。私のは榎本先生と両三再日本アルプスに同道した記念の意味もあって、槍、穂高の岩峯を背景にしたイヌワシの図て、今に私の大切な珍蔵品である。

 その頃の或る比叡山探鳥会で、平松さんと歩いているその足元にオオコノハズクの雛が落ちていて、長時間経つのか大分弱っている様子なのを、「大文夫育ちますよ」と平松さんが持ち帰って立派に成鳥まで飼育された。

 飼育中に「ズク引き」の実験をやろうと思い立ち、西川政次郎氏から「ズク引き」の伝授を受けられたようである。

 平松さんから愈々「ズク引き」を御覧に入れようと声がかかったのは翌年の秋であった。「ズク引き」と言うのは夜行性のフクロウ類を昼間止り本に止まらせて置くと小鳥達が寄って来て騒ぎ立てる現象を利用して古くから行なわれた狩猟法であるが、勿論狩猟はしないて、当時は極一部の人が野鳥の習性などの観察に利用していたに過ぎない。

 さて、或る日の早朝、前述のオオコノハズクとエナガの籠をリュックサックて背負った平松さんに従って、二人て槇尾山の林中に這入った。停り木の設置などの用意が整うと鷹匠の様な皮手袋をはめた平松さんは手際よく停り木にオオコニハズクを据え、稍離れた所にエナガの籠を置いて待機する。

 停り木には紐を結えてその一端を平松さんが持ち、時々引くとオオコノハは羽をバタバタさせてバランスをとる。小鳥達に存在を知らせるためである。エナガもその鳴き声によって小鳥達の注意を引くためてあるが、エナガは必ずしも必要ではないそうである。

 かくして程なく、カラ類を主とした諸々の鳥達が風の如く群をなして寄ってきた。近くに人間がいても無視したように私の肩に触れるものもあった。お蔭て貴重な経験が出来たことを今日でも感謝している

 

 平松さんは戦時中、満洲パルプエ業会社に籍を置かれた関係で、昭和17〜8年へかけての雑誌用紙の深刻な入手難に際し、「野鳥」用紙の確保に大きな功績があったことは中西先生の文章によって初めて知ったが、私と平松さんのコンピて色々やってきた中で最も思い出深いのは戦後の混沌から漸く立直った支部活動の復活時代て、同好者の獲得には随分苦心したものてある。

 大新聞の学芸欄に探鳥会の予告を載せてもらっても、当日になってみると誰も参加者がなく、平松さんと二人で歩いたことも一再ならずあった。

 バードデーの始まった頃、最初は大阪府では予算の都合と何分不慣れの仕事と言うので企画と実際の仕事は全部大阪支部へ頼み込んできた。大阪支部といっても森田支部長は健在てあったが、平松きんと私以外に誰もやってくれる人がない。

 第一回のパードデーは昭和22年4月10日てある力、大阪で初めてこの行事をやったのは翌23年4月10日て、淀川畔の聖徳館で講演、レコード、映画などの会をやった。会場の斡旋と当日のことなど当時、大阪市社会教育課に居られた筒井嘉隆氏の協力もあって非常に盛会であった。

 然しこの仕事を個人が経費まで負担してやるのはどうかと言うことになり、翌年の24年には府でPRの印刷物を作って小学校と中学校の生徒に配る他、平松さんの発案によって府が提供してくれた宣伝カーに平松さんと私の事務所の女子職員が乗り込んで、ビラを配りながら終日スピーカーで市中を練り廻った.

 その後、4月10日が5月10日となり、バードデーがバードウィークになってからも府の仕事として軌道に乗るまで数年間はシーズンが近づくと行事打合せのため平松込んと二人で府庁に同道して参画を続けた。

 支部活動の状態も昭和30年代に入ると稍正気を取り戻し、先に筒井嘉隆氏が大阪市立自然科学博物館長に就任されて、その御理解ある協力を得て博物館の毎月行事の中、年2回位は探鳥会として支部と共同の催しとしたことと愛鳥週間普及の効果と相まって追々メンバーが増え、熱心なグループも出来て、昭和34年には研究部が誕生し、岡田康稔氏指導の下に毎月例会を行ない、研究部報を発行することになった。

 これが現支部報の前身である。これて平松さんも気をよくして、すっかり安きされた。その後も大阪支部はヤングパフーによって順調に発展しつつある。平松さんは永年勤務された帝国産業では総務部長まて昇進されたが、文化的な或は趣味的な接触面ては勿論、接触のあった財界の諸方面て機会ある毎に自然保護と鳥獣愛護の啓蒙努力を欠かさなかった功績は大きい。

 その頃は再々夕食を共にしたり、時にはパーなどにも同道したが、ホステス相手の社交も仲々巧妙て、酒席の話術にも長して居られた。帝国産業を定年退職後は地元の建築会社で渉外を担当して二、三年在職されたが、健康の都合もあって大阪府森林組合連合会に転じ数年間在職された。晩年は義弟の経営される株式会社平松の監査役として悠々自適の生活であった。

 平松さんは俳号を十一と号し、句歴は30年のベテランである。俳句は私の方が数年の先輩であったのに何時しか句界を遠ざかってしまったのに反し、平松さんはずっと引き続き精進されていて、進境も亦格別であった。旅行先からの絵葉書通信には必ず句が添えてあった。かねて鳥の見地から従来の俳句歳時記や、又既刊の野鳥歳時記にあきたらず、自著の出版を念願されていたのに完成を見ずに終ったことは誠に残念である.

 地元の岸和田市では永年、各種の文化団体に関係されていて名士の一人である。明治40年生れて、まだまだこれからと言えるのに、かくも突然の訃報に接するとは思いもよらず、誠に痛惜の極みであった。長い間の親交を思いつつ平松さんの冥福をか祈りして筆を欄く。

以上第四部:大阪支部報No.48:4-6(1972)