3.野鳥の会と飼鳥の問題

 昭和46年の現在に於ても町に野鳥の不法飼育が絶えず、小鳥屋の店頭にメンロが売られている現状であって、当支部に於ても若い方々の努力によつてその実情を調査中であるが、野鳥を飼うということは破廉恥なことで あるというP Rを根よく徹底さす必要があると思う。

 ところで野鳥の会初期の頃は鳥といえば狩猟か飼育の対象としか考えず、野鳥をただ見たり聞いたりして楽しむといつても一般にはびんと来なかつたのが普通で、或はその意味が分かっても余りにも高踏的なように感じられたものだ。従ってその頃の支部員は飼鳥家が多かつたのは当然であつた。

 前述のように守山さんがそうであつたし、熨斗庄太郎、西川政治郎、古川孫太郎などの諸氏は飼鳥の大家として知られた人達であつた。会長の中西先生にしても初めに先生を名高くしたものは放飼とはいえやはり飼鳥であつた。

 現代の目から見ると変なものであるが当時は寧ろ普通のことであつて、山階博士の名著「日本の鳥類とその生態」には種毎に「飼鳥としての価値」という項目がある位である。

 野鳥誌上にも普通には飼育の困難な、コノハズク、ホトトギス、ミソサザイなどの飼い方秘伝のような記事が時々出てその方面の要望を満たしていた訳である。

 然し野鳥の会の主旨からしても飼鳥に対する批判が漸く高まり、第一榎本先生が大の飼鳥嫌いで、小鳥商とか飼鳥オンリーの会員はいつしか遠のいて行つたことは巳むを得ないことであつた。中西先生も「野鳥」第6巻第3号(昭和14年)の悟堂随筆中で放飼との絶縁を声明されている。

 然し飼鳥そのものが法律的に制限乃至禁止されたのは漸く戦後になつてからで、昭和25年の狩猟法改正によつて初めて保護鳥獣を飼育するについて知事の許可がいることになつたので、その後の実1青はご承知の通りである。

以上、第二部:大阪支部報No.41:3-4(1971)

4 阪神支部から大阪支部に

 日本野鳥の会が出来て5周年の昭和14年頃から各地に支部結成の気運が高まってきたのと、神戸在住の会員が増えたこともあって、阪神支部から神戸支部が分離することになり、同時に支部長、指導員、幹事はそのままで大阪支部と改称することとなった。神戸支部は支部長小林桂助氏、幹事は重田芳夫、裏川吉太郎の両氏で、14年5月20日に発会式を挙げ、翌21日は発会記念行事として六甲山探鳥会を挙行した。

 大阪支部から森田支部長初め、榎本指導員、堀田幹事のほか筆者など6人が参加した。爾来支部同志の連絡は密で堀田、裏川両支部幹事の交友関係もあって、支部行事ては双方から何人かの参加があるのが普通であった。

 この頃から時局の影響で人事の移動による会員の出入が激しくなってきた。この年の6月に野鳥の鳴声放送の創始者として有名てあった猪川城氏が仙台から大阪中央放送局の放送部長として来任された。話題の豊富な人で支部の行事にはよく出席せられ、探鳥会には縷々行を共にした。

 翌年には京都放送局長に栄転されたが、18年には放送局を退き、間もなく東京市政調査会に入られた。この間、京都支部幹事大中啓助氏の応召のため、幹事を代行されたこともある。

 15年2月には平松道夫さんが大阪勤務となって満州から帰任された。17年度からは堀田氏と共に幹事を再任され、戦後に及んでいる。

 岡田康稔さんも16年に戦線から帰還されて大阪府立産業能率研究所に勤務されていたが同年11月、日本水産株式会社に入り、東京勤務となって離阪された。

 16年3月には丸山廉氏が米国名古屋領事館の閉鎖と共に大阪領事館勤務となって大阪支部の仲間入りをされることになった。

5.榎本佳樹著「野鳥便覧」の出版

 「野鳥便覧」上巻の出版は昭和13年3月で、その出版記念祝賀会は同年4月5日、堂ビルの清交社で行なわれた。当時は小型で携帯に便利な野外観察用のガイドブックとしては僅かに、石沢健夫、下村兼二共著「原色野鳥図」上・下巻があるのみで、この種の適当な手引書が要望されていたのである。

 この出版に際しては支部長森田博士のあらゆる御援助があったものと聞いているが、上巻の内容は総説と主に夏季我国の山地で見聞する主要鳥類78種の着色図版17葉と解説で、下巻には上巻に載せた以外の内地産鳥類180余種に関する解説と着色図版を収める予定と発表されていた。

 この年の3月に丁度時を同じくして中西悟堂氏の「野鳥ガイド」上巻、陸鳥篇が日本野鳥の会から出版されている。共にA6版の小型で、内容はそれぞれに特長のあるものであぅた。

 その後、榎本先生とは個人的にも特に親しく交際して、堀田氏と共に各所に同行したり、何かと御指導を受け、席を同じくすることが多かったが、下巻出版に関する話題が出た時は私も微力ながら何等かの御援助をしたいことを申し上げていた。

 それから戦局もだんだん進展していぅた15年夏になって森田、榎本両先生から「野鳥便覧」下巻の出版を引き 受けてくれないかと言うか申出を受けた。友人に出版関係の人がいたので早速準備に取りかかり、著者は勿論、関係者一同大童の努力で翌16年6月に発行することが出来た。

 上巻の経験上、図版などで改めるべき点を改め、予定より収容種類も多く、着色図版32、解説鳥類216種となり、当時としては立派なガイドブックとなった。日本野鳥の会大阪支部を発行所として500部を製本した。

 巻末の「日本産主要鳥類測定表」は現在に於ても貴重な文献である。7月15日に大毎野鳥の会と大阪支部共同主催で出版祝賀会を清交社で挙行した。京都・神戸両支部より支部長はじめ諸氏の参加あり、参会者総計28名でこの快事を祝福し合った。

6.初期の頃の探鳥会その他

 当時は支部報の発行はしてなかったので、支部活動としては主として探鳥会と室内例会であった。探鳥会は毎月は出来なかったが、その足跡は岩涌山、生駒山、箕面、六甲山、比叡山、高野山、大台ケ原、淀川河口、住吉浦、山田池、仲哀応神御陵付近、大海池、来住池(小野の鴨池)、琵琶湖(主に安曇川河口、舟木付近)、岐阜県下池等に及んでいる。

 毎年初夏の比叡山探鳥会は京都支部に合流して榎本先生以下大挙して参加するのが例で、この探鳥会では故・川村多実二先生の名解説を聞くのが楽しみであった。この頃の比叡山は「天然記念物、鳥類蕃殖地」の名に恥じず 特に釈迦堂を中心とした西塔付近は静寂で勝れた探烏地であった。

 定宿の青龍寺は天を突く杉木立のただ中にあり、早朝の諸鳥の盛んな合唱は空気中に充満した感じて、聞き分け るのが困難であった。

 岩涌山も今と違って地域全体に樹が繁っていて、ヒガラやキツツキ類が多く、勿論「山の家」などはなくて、お寺に泊まり、食事の世話もしてもらった。座敷にいてアカショウビン、サンコウチョウなどが真近に聞え、アオバズクのホウ、ホウが頭上余りに近くきて、クポッ、クポッと開えたりした。箕面、六甲、生駒より鳥が多くて、支部の探鳥会には最も適当て、行く回数も多かった。

 住吉浦は南港埋立工事のなかった時分の木津川の河口と住吉川の河口の合う、今は発電所のある付近で、現在では地形の想像も出来ない程変ってしまった。

 春秋のシギ、チドリは勿論、余り人の立ち入らない場所のため、コチドリ、シロチドリ、コアジサシ等のコロニーがあり、その数たるや夥しいもので、その地域に入ると、どれかの巣を踏まずに進むことは困難であった。カルガモ、バン、オオシキリなどの巣も多く、舟を利用すると便利であった。

 シギ、チドリは交通と足場などの関係止、大勢の探烏会には淀川河口へ行くことが多かった。あの辺の地盤沈下の起る前で、干潮時には岸に干潟が出来たり中州が現れたりして、堤防上から楽て観察することが出来た。又、満潮時には堤防の外側に鳥の集る湿地があって、干潮時に堤防上で充分観察して潮が満ちかけると堤防を下りて、その湿地で弁当食いながら待っていると、シギやチドリが続々と集まってくると云う具合で、今のような芥だらけの干潟でなく環境も比較的きれいであった。

 秋のシギ、チドリの渡りが終ると冬鳥の渡来が盛になり、ツグミ類も続々と渡ってくる。現在では悪名高いカスミ網であるが当時は密猟でなく許可営業で、大阪でも生駒の山上近くの額田寄りのところで毎年行なわれていた。鳥屋場には「鳥梅のかっさん」と我々が呼んでいた老人がいて、シーズンには時々訪れてツグミ飯をたいてもらった。

 ツグミ、シロハラ、マミチャジナイ、その他の鳥を実際に手にして見られることの外、囮の時ならぬ囀りが谷間に響いてくるのも一つの景物であった。

 新年号(必らず12月中に出た)の「野鳥」誌に「大阪支部の山田池鴨場見学会を兼ねた新年宴会」の予告が出て、その一隅に「生鴨値段(竹寵入リー番い)マガモ5円、ヒドリ3円、コガモ1円60銭等々」とあり、これは池でカモを見るだけでは監理人に余り歓迎されないので、土産に鴨を買うための幹事の配慮であった。山田池のカモを見て帰途、付近の料亭魚富で鴨の鉄板焼で宴会と云うのがよくあるコースであった。

 ヒシクイを見るには当時は来住の池まで出掛けねばならなかった。ゴルフ場は勿論なく、丘陵にひっそりと水を湛え、周囲約5キロ、視界には人工的なものは何もない静寂境てあった。池畔は出入に富み、ヒシクイは多い時 は100羽以上、カモ類は10万と報告されたことがあり、背後の山の合間で一種の投げ網による鴨猟が行なわれていた。

この池は終戦時に進駐の米兵によって銃獲の難に合い、カモ1羽も居らぬまでに荒廃したことがあり、その後、やや回復したと安心する間もなく、今度は池の周辺に現在の様なゴルフ場が出来てしまって池も小さくなり、徹底的な破壊を蒙っている。

 琵琶湖の安曇川河口舟木付近も今は大きく変ってしまったが、四津川内湖が未だ干拓されない前は風光明美な水境であった。内湖ではカモ類は勿論、カイツプリ類、バン、オオバンなどが極く真近で見られる楽しいところで、堀田氏はカィップリ100羽の群を見たと報告している。

琵琶湖畔に出たところにひなびた旅館があって一泊したことがあるが、早朝湖面が白んでくると夏の夕立雲の様に空一面の黒いかたまりが力その群てあって、トラックが近づく様な音を伴って、一陣二陣と過ぎて行くのは誠に壮観であった。

爾来、幾星霜、社会的な変革もあって、琵琶湖と言わず、層ての探鳥地でそのままの姿を残すところは皆無に近く、誠に淋しい限りであるが、この度琵琶湖の全面的禁猟が決ったことは何と言っても近来の快事てある。いつの日か往年のカモの大群に再び接することの出来るようて祈りたい。

 戦局も大分押しつまった昭和18年1月16日,17日の両日にわたり、大阪支部と名古屋支部が合同で冬季探鳥会として岐阜県下池てガンを見る会を催した。丸山廉氏のあっせんによるもので、第一日は桑名駅で落合って、養老線美濃山崎て下車、今晩の宿坊行基寺に向う。

 行基寺は養老山脈の東に突出た支峯上にあり、濃尾平野を一望の見晴のよいところで駅から約1時間の行程。翌朝は一且下山して駒野駅から乗車、次駅の美濃津矢て下車する。ここで本日の雁猟見学の斡旋をして頂いた岐阜県狩猟主任の亀山氏と後発の方も加わり、大阪支部3名と共て総勢15人となった。

折柄の吹雪の中を行程2キロ強の下池に向う。下池は昔からガンの多いことで有名な所で、津矢川が揖斐川に注ぐ合流点の北方に当り、昔は南北4キロ、東西2キロの大池であったが何時の頃からか干拓されて見渡す かぎりの湿田が広がっていた。

 マガンとコガモが特に多く、最盛時はマガン4千羽と称せられていた。ここで古くから雁猟が行なわれ、猟法としては6間に1間の片無双網を用い、引き網として50間乃至250間の竹網を使用していた。

 猟者は堤防上の松並木の中に隠れていて双眼鏡て注視し、頃を見計って竹網を引く。我々の着いた時は今勢子をやったから網を引くまで二時間はかかるだろうと云うことで、勢子と云えば猪猟や兎猟などの勢子を想像していたが、それらしいものに気付いたのは数10分経ってからで、濃尾平野の広莫たる雪田の連か彼方に黒点が一つ現われた。

 やがて右にも左にも、それが勢子で、ガンは徐々に此方へ移動してくる。終には眼前に数百羽が乱舞するようになる。突然、ガンが乱れ散ったと思ったら網が引かれたのである。マガン16羽が掛かった。

 この位の数では引かぬのだが、雁猟の実際を早く見せるための好意で早く引いたとのことであった。この日は それから狩猟小屋て雁鍋の饗応を受け、思わぬ醍瑚味を満喫して帰途についた。この下池も戦後いち早く幻のガン渡来地となったのは言うまでもない。

以上第三部:大阪支部報No.49:4-7(1972)