1.日本野鳥の会の誕生

 この度、日本野鳥の会が財団法人となつて、新しく出発することになった機会に、支部の沿革のようなものを書いてはどうかと云う編 集部の要望もあり、私も支部報に書いて置きたいと思うこともあるので、お引受けして古いことなどあれこれと書いて見たいと思う。

 中西悟堂先生が「学術、趣味両方面から、真に健全な愛鳥思想を普及する」趣旨のもとに、日本野鳥の会を創設されたのは昭和9年のことで、機関誌「野鳥」の創刊は同年5月号からであつた。

 その編集方針は「広い意味の知的水準に立って読者を求め………鳥のマニヤをつくるよりも寛潤な精神の領土を培って、鳥を自然のまゝに楽しむ人々をふやす」ことにあつた。中西さんは今日までずつとこの方針を貫いて居られる。

 この野鳥と云う機関誌の名称が決まるまでは随分、推敲の労を重ねられたようで、このために創刊がニケ月遅れたと云つて居られる。今日普通に使つている野鳥と云う熟語はこの時から初つたものである。

2.阪神支部の結成と初期の人々

 最初は会の活動も東京を中心としたものであつたが、昭和11年に京都支部が出来、大阪支部の前身、阪神支部が出来たのは昭和12年であつた。

 支部長は当時、大阪高等学校教授の森田淳一博士、実地指導者として榎本佳樹翁、幹事は守山鴻三氏と言う顔振れで、支部事務所は住吉区松崎町の守山鴻三氏方となつている。支部結成早々から講演会、探鳥会談話会など活発な活動振りであつた。

 支部長の故森田先生は大阪府でも屈指の大地主の旧家の出身で、大正8年東大理学部動物学科を卒業し、大阪医科大学副手を経て大正11年大阪高等学校開校と共に教授に就任された。

 後年には校長として、戦後の新学制により大高が阪大に昇格するまで最高監理者として有終の重責を果された。晩年は大阪府文化財保護委員、八尾市教育委員長、女子歯科大学理事等を勤め、文化、教育方面の功績も大きい。

 大阪支部長としては阪神支部開設以来実に20余年間、野鳥運動と後進のま旨導につくされ、包容力と雅量に富む、指導者としての天分豊かな人であつた。昭和35年1月25日心臓喘息で急逝された。享年66才 まだまだ惜しまれるお年であつた。

 私が野鳥の会に入つたのは昭和13年の初めで、守山さんが御転勤のため幹事を辞任され、平松道夫、岡田康稔両氏と交替される前後である。平松さんも岡田さんも共に現在も大阪支部の重鎮で最長老でもある。

 初代幹事守山鴻三氏は当時、牧畜及牛乳加工業守山商会の取締役大阪支店長として大阪に来住されていて、御自宅では数十種、百数十羽の野鳥を飼育されていた。飼育法や飼料に関する報告等がある。

 阪神支部の結成には一方ならぬ御尽力をされたと聞いている。藤沢市の本社に御転勤後も大阪に御家族のお住いもあったが、常には藤沢に住われ、白雲と号して野鳥誌上に随筆など独得の筆をふるって居られることは衆知の通りである。昭和34年には湘南支部を創設し支部長として活躍された。

 私は入会の年の五月に初めて六甲山探鳥会に参加し、平松、岡田両氏と榎本先生に初めてお目にかかった。集合場所にはグリーンの地に白字を染め抜いた「日本野鳥の会阪神支部」の旗がかゝげられているので分りやすい。

 出発の際は若い元気な誰かが担いで行くことになつている。榎本先生はジャンパーを着て防水の登山帽を被り、小さいリュックを背負つて、双眼鏡を肩にかけ、右手には扇子を持つて居られる。これはその後もいつの探鳥会でも変らぬ先生の姿であつた。誰かゞ「その扇子は鳥を招くためですか」と皮肉つたことがあるが「私は汗かきで暑がりですので」とまじめなお返事であつた。

 その日はケープルで山上へ、高山植物園を経て有馬へ下りたが、ちらっと横ぎつた鳥、チッと一声の鳴き声にも直ぐあれはヒガラ、これはシジユウカラと先輩達の指摘するのには只々驚嘆の念を禁じ得なかつたが、これは誰でも一度は経験されたことであろうと思う。

 榎本先生は初心者のために出てくる鳥一つ一つにつき懇切丁寧に説明され、どんな愚間にも何回でも親切に答えられるのである。この日の探鳥会の記録と紀行文は私の入会紹介者である山下三之助氏(当時、丹平商会勤務)が執筆して野鳥誌上に報告されている。

 当時は支部の行事の予告や報告は野鳥誌にのるのが普通であつた。尤も支部の行事や探鳥会の回数も少なかつたこともあるが、その後支部が増えたのと戦局の進展で紙の事情が悪化して頁数節約の必要などのため、極く稀にしか支部の記事がのらぬようになった。いつかこの支部報の誌上で支部報を作らなかつたために支部の記録や貴重な資料が失われて後悔していることを書いたことがあるが、一つには上記のような事情もあつて、支部報の必要を感した時は既に事局の圧迫感と物質不自由時代に入り、戦後も相当期間同じ状態が続いたことも支部報の発刊が遅れた事由であった。

 前記山下氏の記録によると、この日認めた鳥は23種となつている。朝8時半に阪急六甲駅に集合し、午后4時には有馬で解散する日帰り行程としては今と比べて、種類も多いし個体数や鳥出現の頻度はやはり隔世の感がある。

 榎本さんは明治6年徳島市に生れ、少年時代から鳥が好きだつたようである。長じて陸軍士官学校を卒業し、明治30年少尉に任官後14年間軍人生活を送られた。その間、澎湖島、台湾、満州、朝鮮等にも歴任され、日露戦争後、陸地測量部に勤務されたこともある。 満州時代に日本動物学会に入会されている。当時の軍人としては余程の変り種であつたに違いない。明治44年に予備役に編入され軍人生活が終つている。

 大正5年には日本鳥学会に入会、大正6年に高野山中学に奉職されて地理と図画を教え、昭和8年に退職される迄16年間高野山に在住された。その間農林省の委託を受けて付近一帯の鳥類の調査をせられた。その後山を下つて大阪に住われることになり晩年に及んでいる。

 大阪支部が出来てからは実地指導者と云う役割に責任を感じられて、探鳥会には参加を欠かされたことがないばかりでなく、数日前に下調査に出掛けられることが普通であつた。

 野外では一刻も鳥から注意を外らすことはなく、車中でも常に窓外の鳥影を求めて居られたもこのことは高著「野鳥便覧」上巻に「観察の機会」と云う項目中で「鳥類の中には一度見聞の機会を逸したら、観察者の一生の間に再びそれを見聞することの出来ない様なものも少くないから常に油断なく注意していて不覚をとらぬ様にせねばならぬ…・・・…」とあるのを自ら実行して居られたのである。

 鳥類の野外識別については我国の草分けで、普通最も困難とされているシギ、チドリ類、ワシタカ類、海鳥類などの野外識別は先生の最も得意とされるところで、この方面の先駆者である。従つて当時、大阪支部の催す淀川、住吉浦などの探鳥会は誠に特色のあるものであつた。

 著書に、野鳥便覧、上下二巻、野の鳥の思ひ出(共に後述)があり、又、動物学雑誌、鳥、野鳥、農林省発行の鳥獣巣報、鳥獣報告集等に数多くの報告、論文を残されている。

以上、第一部:大阪支部報No.39:3-5(1970)掲載

 

 前述、5月の六甲探鳥会に続いて6月4,5日と一泊の吉野山探鳥会に参加し、この時初めて中西会長、森田支部長、守山前幹事の諸氏とお会いした。はからずも初めて聞くコノハズクの生の声や巣立直後のコサメビタキの一家族が横枝に並んだ姿、西行庵でま近くに見られたキビタキの姿と声、蔵王堂の前て松の幹を上るアオゲラのショウなど、初めて出会った鳥の印象と感激はその環境と共にいつまでも生々しい思い出である。

 それと中西先生が全コースに渉り、一歩一歩停徊して克明にノートされていた姿が誠に印象的であつた。この探鳥会は大毎野鳥の会主催、日本野鳥の会後援で参加者は70余名であつた。

 大毎野鳥の会というのは大毎の事業部副部長の山口勝一氏が野鳥の会の主旨に共鳴して、大毎の事業として行われたもので、前年の昭和12年7月に第1回「探鳥ハイキング」を岩湧山て催した時は新聞社の宣伝力もあつて、参加者二百数十名という盛況て関係者を驚かしたものである。大体年1回の行事てあった。

 山口勝―氏はらい落な風ぼうの新聞マンで野鳥の会のためには何かとご尽力を頂き、関西の野鳥運動への功績は多大てあつた。後に事業部長に昇進きれ、毎日新聞社てはまだまだ大成を期待される人であつたが、不幸病を得て昭和18、43オの若さで他界されたことは痛惜の極みであつた。

 守山氏から幹事を引き継かれた平松、岡田両氏も席の温まる間もなく、同年7月には平松さんが満州牡丹江へ赴任され、相ついて岡田さんが応召されたため、幹事は三転して堀田光鴻さんと決まり、支部事務所は北区堂山町同氏方となった。

 堀田氏は砿油商の傍ら余技に野鳥の生態画をよくし、野鳥誌上にも時々画筆を振われた。幕末から明治にかけて本草学者叉は博物研究家として知られた堀田龍之助は氏の祖父に当る。祖父の血を受け継いだというか幼少から鳥が好きて、殊にカモ,シギなど水鳥に詳しかつた。就任以来、昭和19年に辞任されるまで名幹事として、家業を省ず支部のために尽された功績は多大である。

 昭和15年2月1日から11日まで大阪ガスピルで野鳥生態画展覧会を催し、祖父龍之助翁の野鳥写生画35点と共に自作の油絵、水彩画など107点を展示、初日には千数百名の観客があり、爾後9日間毎日七,八百名の入りという盛況で、相当数の赤札もあって催しとしては大成功であつた。これに自信を得て、昭和16年神戸大丸,同18年には新宿伊勢丹で夫々個展をひらき大いに話題をまいた。従来、展覧会の画につき、野烏学者或は野鳥観察家の立場からの画評が何かと話題を提供していたのが普通であつたが、野鳥観察家から生態画の名乗りをあげたのは快事であつた。